再び現在に話を戻す。
今の悩みというか今私ができない事の一つが、『選択』をするという行為。
一番ひどい時は頭の中では今日の夜には何を作ろうと何となく決まっているのにいざスーパーへ到着すると、どの食材をチョイスしたら良いかが選択できないのだ。鶏肉一つとっても手にとっては戻し手にとっては戻しと繰り返して気付いたら1時間くらいその場に居続けた。側から見たら完全に不審者である。
これもどうやらまた、うつ病の一つの症状らしい。
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セミナーに夫婦で参加してからは何となく風通しのよい日々が見えてきて心内はゆっくりと平常である時間が長くなっていった。
生理は来ないし、物もあまり食べれず体重は減る一方で体型なんておじいちゃんみたい。体は悲鳴をあげているけどどこか脳の片隅では決断していかなければならないと自覚していた。
この先どうするか。またチャレンジする道。子供のいない人生を歩む道。心ではもう焦ることないのだと思いながらも、この時すでに三六歳。今すぐどうということは無理でもダラダラとしていることはできない。どうしたって女の体には子供を産み得るタイムリミットというものがあって、急がずにでも急いで『選択』をしなければならないのだ。
いいよな。男は。最近も七〇過ぎてから子供ができた、なんてことをテレビで煌びやかに放送していた。遺伝子を残す機能だけは女より遥かに長生き。そりゃ結婚を焦る必要もない。ある程度地盤を固められたら若い奥さんでも貰えば何歳になっても自分の子を授かれるチャンスはあるのだ。
まぁ、女性に限らず男性不妊なんてものも最近は少し、本当にほんの少しだけ認知され始めて元より授かれない男性もいることはわかってはいるが、一方不妊症の原因の多くは男性にもあるという事を知らずに全てを女性に押し付けている悪しき思想はまだまだ蔓延していて
「俺の機能は正常だ」
と何も疑わずにいる人の方が多いと思う。検査さえ拒否する人が多数だと聞く。
どこから来るんだよ、その自信は。そんな実情はきっと大昔からあるのに、子供ができないからと簡単に使い物にならんとおいそれと実家に帰されたり、陰に捨て置かれたりしていた文化が当たり前だったかと思うとゾッとする。
そんな事を初めて思ったのはこの時ではなく現在は皇后になられた雅子さまが皇太子妃になられてから暫く、なかなか子供に恵まれずにとてもお苦しみになりながらも世間の闇のバッシングに合い、心を壊してしまった時だ。
なぜ、女性だけにスポットを当てる?古い。しょうもないな日本は。遅れてる。そう思った記憶がある。お二人に愛子さまが授かって本当に良かったと心から思っている。
私はこの先どうしよう。どちらを選択すべきか。子供を持たずにそれでも人生を楽しんでる人は沢山いる。それが全てではない事ももう頭ではわかっている。固執する事ではないのではないか。何より、もうこんなに辛い思いはしたくない。
考えても勿論明確な答えなんて出ない。ただ一つだけわかってたことは、チャンスが0ではないのに。という事。多分だけど。
原因がわからないからこそ苦しんで対処もできず、神様までも否定した毎日。
神様なんていない。いるとしたら相当嫌な奴だ。
だけど、どこからか湧き上がるのは「負けたくない」という私の根本にあった負けず嫌い精神だ。
鬱の真っ只中にいる時はしんどかった両親の
『泣いてちゃいけない、負けちゃいけない』
という目には見えない精神分配が私にはやはり深く溶け込んでいて、その精神がよくも悪くも私を掴んで離さない。
ここまで辛い思いをしたからこそチャンスが根絶されたわけではないのにもうここで諦めるほどのレベルで子供が欲しいと思っていたのか。
何も考えずに当たり前のようにポンポンと出産してそれでも文句をタラタラ言ってる人が沢山いる。大変なのはわかるけど、私から言わせれば反吐が出た。
負けたくない。親に任命された事を当たり前で普通だと思ってる人たちには。
その立場にあぐらをかいて自分たちは一番偉いのだと思っている様に感じざるを得ない人たちも日頃よく目にする。
ふざけんな。
勝ち負けではないし、子供を持つ事が勝利では勿論ない。
ただ望んでいたものを原因もわからずに取り上げられてきた自分は『何で自分ばっかり』という劣等感で埋め尽くされてしまっている所がある。
だから、ここで終わりにしたらそれは負けになるのではないだろうか。。。
それが私の漠然とした『選択肢』となっている。
しかし、この思いも日々揺らぎ、確固たる『選択肢』とはなっていないのが現実。
不安という障害はハードル競技のように超えては現れ超えては現れる。
もっと世の中も、自分の心の中も自由に一人の人間としてただただ生きていくことはできないものか。