私は親になれない

流産を3回経験し、絶賛『鬱病』闘病中・子なし四十路女の小言。それでも切実に伝えたい事。この日本でも個人での自由な生き方がもっともっと当たり前になりますように.....。

19、見れない

こういう日々を過ごしてきた中で、結構パンチを食らいまくっていたのがSNSだ。フェイスブックやインスタ、当たり前のように日々関わるようになっている日常で私はこれに大分苦しめられた。

見なきゃいいじゃん、と言われればそれまでなんだが、外にも出れず世の中から疎外されてるような気持ちでいっぱいになっていた私はとにかく体がしんどい時も携帯を眺めているしかなかった。

映画や読書や大好きなゲームをする『心の余裕』がその時はなかったのだ。

そういう意味でも携帯ほど恐ろしいものはない。一日中、感情無しにでもずっと眺めてしまえるツールなんだから。ある意味では酒よりよっぽど中毒性があるのではないかとさえ思う。怖い怖い。

 

1回目の流産後に仲の良かった友人の一人にそれを打ち明けたことがあった。

同い年の子で同じ時期に結婚をし、同じ様に子供を授かりたいねと話していた子だ。まだ1回目の時は、結構よくある事らしいという気持ちで何とか受け止めていたので「実はね・・・」なんて感じで軽く報告をしたのだが、その子はその話を聞いて涙ぐんでくれていた。そんな彼女の気持ちに感謝をし、頑張ろうね、と言い合っていた4ヶ月後。私はまた妊娠をし、そしてまた流産をした。

 

告知を受けて大声で叫び、心が冷めきった術後の家の中。子宮収縮剤による痛みで歩行ができない時間にふとフェイスブックを眺めていた。

 

『安定期に入りました』

という文字と共にマタニティーマークの写真。

 

・・・・・・。

それを見て何とも言えない気持ちになった。妊娠をしたという報告は個人的に受けていてその事については心から良かったと思えたし

 

「私に遠慮しちゃうと思うけどこれからも気にしないで話してね」

 

という事も伝えていた。

その時、術後の最悪な状況であった事もあるがSNS上で必要性の感じない報告をご丁寧にマタニティーマーク付きで投稿してる彼女に心から不信感を抱いてしまったのだ。違う意味で、この投稿だけ私には見れないようにしろよ。なんて思ったりして。

 

実は、私自身も自分がまだ結婚する前に親しい友人が一度流産を経験し、辛い想いをしているのを間近で見ていたので

「ああ、妊娠出産するのって当たり前じゃないのかもな」

と心から感じ、学び、本当に悲しくて、それを当たり前の様にひけらかす事は控えようと心に刻んだ経験がある。

身近に流産したり、なかなか妊娠できず不妊治療で苦労してる人がいたら普通は

『妊娠しました』

ましては

『安定期に入りました』

なんて事をわざわざ皆が見ているであろうSNS上で投稿するなんて普通はできないんじゃないだろうか。

一体何の『いいね!』欲しさなのだろう。いいね!に決まってる。何を大々的に発表してるんだよ。と。

 

それ以上、彼女とは連絡も取り合わなくなったし疎遠になったままだ。

まぁ、冷静になって考えれば誰も悪くないなんてこともわかっているが、私にはあまり理解のできない行動だった。

 

昔から『年賀状子供成長お知らせ問題』というのが横行していて、これに関しては『いい』と感じてる人なんて皆無なんではないかと思う。

たとえ自身に子供がいたとしても他人様の子供の写真を毎年送られた所で心は全く動かないと思うのだが。喜ぶのはじいちゃん、ばあちゃんくらいだぞ。絶対に。

それが現在ではSNS上で日々、時間単位、秒単位で行われている。

家族の記録としてたまに残しておくことは素敵なことだと思う。ただ、いちいち『こうなりました』『ああなりました』という書き込みは、はっきり言って年賀状と一緒で全く他人の心は動かないのではなかろうか。適当に『いいね!』押してるだけですよ、と思うのだ。そんなものは当事者同士で集まって報告しあってればいい。

 

何より、『当たり前だと思ってる事』を一歩引いて考える様になってほしい。ラグジュアリーな暮らしや素敵な生活などを公開し、いいね!と言われ満足するのとは訳が違う。お金で苦しんでいる人がいるのもあるがそれを言ったらキリもないし何も動かなくなってしまうんだけど。

ただ、性的な問題で元々子供を授かれず悲しんでいる方や私の様な不育、不妊で劣等感を感じて生きてる人がたくさんいる事。お子さんを亡くされてこれ以上にないほどに苦しんでいる方もいる。その辺はとってもセンシティブな問題だと思うのだ。

 

何も子供の事をSNS上に載せてくれるなと言ってるわけではない。

『今のその状況、子を無事に授かり、育っている事を当たり前』

の事だと思って欲しくないのである。

どんなにラッキーで恵まれている事なのか。どんなに奇跡をもらったことか。それをもっと実感して欲しいのである。

 

そしてちょっとだけ想像力を働かせて、誰でも覗くことのできるネット上に公開する内容を、その言葉や内容の重みを考えてから投稿して欲しいのだ。

昨今ではテレビなどに対しすぐに抗議をしたりSNS上に載せて拡散されたりして『コンプライアンス』という言葉が当たり前のように浸透しているわけだけど、こういった事をわざわざ言ったり書き込んだりしてる人に限って、自分に対してのコンプライアンス能力を持ち合わせておらず、規制がない事を良いことに好き勝手投稿したり、何も考えずそれを見てるかもしれない人の気持ちなんて推し量れずにいるのではないかと思う。

何事も自らが経験したり身近な人が経験したりしないと分からないのは仕方がない事だ。奥底まで理解して欲しいともできるとも思わない。

私にだってまだ経験してない理解してない事柄や苦しみが沢山存在する。

必要なのは『想像力』。

現代の人はそれがどんどん乏しくなってしまってると思うのだ。

自分以外の人の立場になって色々な物事を考えることのできる深みのある人間に私はなりたいと思う。

そして、そういう人が増えてくれる事が結局は平和への道なのではないかと考える。

話が少し大きくなりすぎちゃったかな・・・・・。