昨日久々に近くに叔母が来ているということで会いに行ってきた。
私の叔母も過去に死産を経験し、その後も妊活的な事を続けたらしいのだが体力的にも精神的にも疲れてしまい、子供を持つ事を諦めたと言う。
その事をちゃんと知ったのも私がこの経験を経てからのことだ。
人間、本当に人の気持ちというものを自分の経験なしに推し量ることは難しい。
子供の時から毎年お盆の時や年末年始に山梨の山中にある祖父母の家に集まり、叔父や叔母、そして従兄弟たちと同じ食卓を囲み過ごすのが東京生まれ東京育ちの私にとっては故郷に帰る気分を存分に味わうことができ、楽しみで仕方がなかった。
今思うとその集まりがとても辛く苦痛で何故私だけ?と思っていた時が叔母にはあったのだろうと想像するだけで泣きそうになる。
正直、私も年始に旦那の家族との集まりにて、旦那の弟さんの子供に会ってお年玉を渡したり当たり前だが話の中心がその子になってる空間が辛くて仕方がない年があった。必死に笑っていたが、早く一人になって泣きたくて仕方がなかった。
まぁ、逆に腫れ物感があることも仕方ないとわかっていてそこも何とも言えないしんどさがあり、どうしようもなかった。
『正しい扱われ方』は存在しなかったと思う。
現在では叔母は日々バリバリ仕事をしながら夫婦で色々な場所へ旅行へいったり美味しいものを食べたりお酒を楽しんだり習い事をしたり、大好きなアーティストのライブには地方へも見にいったりと人生をエンジョイしている。
けれどそこにたどり着くまでにはとても時間がかかったと思うし、嫌な思いも苦労も沢山してきたのではないかと思う。
現在ではほんの少しだけ女性の生き方の『多様性』的なものが訴えられ始めていて自ら子ナシの人生を選んでそれを高々と宣言し、生き生きとしている人も出てきている。
山口智子さんのいつかのそういった雑誌でのインタビューはとても爽快でかっこよく今でも変わらずキラキラ輝いてる所以がわかったものだ。
夫婦仲もとてもいいらしい。彼女の子供を持たないと決めていた人生を丸ごと受け入れて愛し続けてる唐沢寿明さんも素敵だ。今でも山口さんのことが大好きで仕方ないらしく、仕事の現場では奥様の話をいつも幸せそうにしていると聞いた事がある。そしてお二人とも独立して人生を楽しんでいる。
叔母が子作り時代真っ只中だった時はきっともっと『何故子供を持たないのか』と心ない言葉や意味のない常識を押し付けられ傷ついてきただろう。
理解されない、というか理解そのものが存在しなかったのではないだろうか。
女は当たり前のように結婚をし、相手の姓になり、「嫁へ行く」という概念の中で自分の生まれ育った家族から出ていく。そしておよそ三十半ば頃までには子を産み母となる。その道筋が『当たり前』であると。
現在に関わらず、どの時代にも子に恵まれなかった人は数え切れない程いただろう。
自分の身体と存在を責め、卑下をし、孤独感を抱えながら自分なりに奮起して子ナシだからこそできる事を模索して、それを優越感に変えて生きていく。それしかないのだろうか。
しかし、逆行するように一番表立っていると言える現在の女性国会議員は、ほぼほぼ『ママさん議員』『シングルマザー議員』を表に出している人のみが取り上げられ名刺がわりに公約の1材料として利用している。
かつて仕事が伴侶であり子供であると力強く言い放ち党首とまでなった人もいたが、逆に今はそれが武器にはなり得ないらしい。
「早く結婚して子供産めよ!」
とか馬鹿な顔して野次ってしまう男がいるくらいだ。
しょうもなさすぎて話題にもしたくない。
働き方改革、やら女性活躍推進法やら言っているがそこには『子があってこそ』という見えない規定があるように感じてしまうのは私だけであろうか。
ママだから、その役割を担いながらも働く。頑張れ!みたいな風潮が大きい気がする。
そして子ナシの人たち、すなわち、自ら子を望まずに生きている人、子に恵まれずに自分の生き方を切り替え生きている人、をどこか置き去りにしているような感覚に陥るのは表に立っている女性国会議員が子アリを名刺がわりに活用している。いや、活用されているからだと思う。
「ママタレント」とか「ママモデル」とかっていう表現も好きじゃない。
だから?って感じだしこれを商売にしていても職業名がわりにしてるのは日本だけなんじゃないかと思う。
女だろうが男だろうが、子アリだろうが子ナシだろうが関係なくフラットになる時代はまだまだ先なようだ。
イクメン、育休的な事も日本人は相変わらずどこかおかしなこととして捉えているんだから。そんな事を議論してるうちは何も変わらない。絶対に。