体もそうだが、心の回復が三年経った今でもなかなか思うようにならない事に、申し訳なく情けないと感じる日々。骨や筋肉と違って心の骨折は本当に長期戦。
すっかり良くなるということは無い気さえしている。ちょっとした事がきっかけで全てを思い出し絶望し泣き叫ぶ。そしてそれに呼応するように体がぶっ壊れる。このループはこの三年、治る兆しはない。
色々なことを経て辿り着けた自分なりの答えや対処法もあるが、小さな抵抗にしか感じれない時期もある。
両親やその他の人も『また社会に出て、働いてみたら』という。言い訳のようだが現在、外で私が仕事をせずに生活できている事は恵まれていると心から思っているが、この選択肢は自分が親になることを完全に諦めた時にしかどうにも私の中には現れそうにない。
『そうやって構えるから、うまくいくものも行かないのでは』
とも言われる。
だけど、三回も妊娠をして流産をしてるのにここから自然に、時の流れに身を任せ状態で妊娠を臨めるものではない。
構えるに決まっている。構えなきゃ出来ない。構えっぱなしなんだから。
どこか、親になりたいと思っているのは物凄い独りよがりで、既に親になれている旦那はそんなには望んではいないのではと思うことも勿論ある。彼は優しいから、きっと『私がそうしたいのならスタイル』なのだ。でも優しいが故、どこかでもう苦しんでる姿は見たくない。というところなんだと思う。でも、私の中の暗闇くんはたまに『だって、この人はもう親になれてるんだからさ』と耳元で囁く。
闇は容赦ない。捻くれ王だ。
あまり構えずに、自然に。もう何なら子供はいいんじゃないか。と言っていたのは父もである。
きっと、一人娘の私が絶叫するように泣いたり、うつ病にかかり苦しんでいる姿を目の当たりにさせてしまったから、もうその姿を見たくないという気持ちが一番なのだろうと思う。
母も初めはそう言っていたのだが、私がゆっくり自分の想いを語れるようになってからは私を『親にさせてあげたい』と言うようになった。きっと父との違いは『女』であって『母親』であるからなのだろうと思う。決めたのなら頑張ってみてもいいね。と。そして時々
『どうして私の娘がこんな目に・・・』
と思い嘆くこともあると言う。
自分の体を傷めて産んだ娘なのだ。母のことならきっと自分を責めたりもしたのではないかと思う。
こんな歳になってこんなに心配をかけている事に心から申し訳なさを感じる。情けない。
私が親になれたのならもっと、強くなれるだろうか。
私が親になれたのならもっと、周りを幸せにできるようになるだろうか。
私が親になれたのならもっと、学ぶ事が増え成長できるだろうか。
かつて、言われた事がある。
『残念だけど、子供がいる人といない人では忍耐力が違う。我慢する心が違う。自分のことを最優先にしないようになる親は学ぶ事が明らかに多い』
と。
実はこれは私が結婚するずっと前に両親が言った言葉だ。自分の娘がまさかこんな事になるとは夢にも思っていなかった時、彼らはこう言う考えだったみたいだ。
私も、そうなのかぁ。親になるってすごい事だよなぁ。と心から思っていた。
今、母は過去に子供のいない友人や叔母に対して心遣いができてなかったのかもしれないと、反省していた。やはり人は自分、もしくは近しい人が何かを経験しない限り他人の気持ちを推し量りながら言葉を発するのはなかなか難しいのだろう。
でも、私を介して母がそのように感じたのなら変な言い方かもしれないけどどこかでよかったなぁ、とも感じる不思議な感覚。
親と子はこうやってお互いが成長していくものなのかもしれない。子供というものは、育て上げるという過程の中できっと親に足りないものを補い、教えるために授かるのかもしれない。だとしたら私には何故?とも思うのは勿論だが、この世に生まれる事が出来なくても既に教えてもらった事が沢山ある。たとえ、なかなかお腹の中に授からずに苦しんでいる人にも絶対に教えてくれてる事がある。
『子供が欲しい、親になりたい』
と考え始めた時点からきっともうその学びはそれぞれの中で始まってるものなのかもしれない。私のこの経験ではきっと母や父は思い悩み色々なことを考えただろう。そして私自身も親に対しても、お空に行った子供たちに対しても色々なことを感じて到底味わう事がないであろう気持ちや経験をした。
そこに大きな意義があったのではないかと、現在は考えるようにしている。情けない、申し訳ないと感じるのもまた私の大切な想いの一つなのだと。
だって、両親にはこれ以上にない程の愛情をもらったからだ。周りに気を使いすぎて敏感になり、人の気持ちを推し量りすぎて疲れて苦しんだこともあったけど、人を思いやれる人間になれたのは100%両親の深い愛情あっての結果であると心から思っている。
この両親の子供としてこの世に生まれてこれた事は何よりも私の人生の中で幸運な事だった。
出来ることなら、私もそうやって共に成長できる経験をさせてもらいたい。