丁度先日、旦那ととあるカフェでお茶をしていた時に偶然高校時代からの友人に遭遇した。
彼女の胸元には小さな赤ちゃんがしがみついていた。
彼女は私と同じくらいの年に結婚をし、私より少し後から子作りに挑戦したいと考え始めたようで少し前には不妊治療を行い、なかなかうまくいかないという現状を耳にしていた。
私のことも全て話していて、なかなかうまくいかない現状にお互いがお互い思うところがあったように感じる。
そしてそれからまた少し経った時に同じように偶然旦那と共に遭遇するという場面があった。
その時、彼女の様子を一目見た瞬間、
『あ、妊娠してる』
とわかったのだ。
私は自分自身の云々を経て、よくわからない必要性のないスキルを習得してしまったようだ。お腹が出ていなくても、雰囲気でなんとなくわかってしまうのだ。
「もしかして妊娠した?」
と聞くと、
「うん、実はそうなの。」
と元来素直な彼女は、とても綺麗で穏やかな顔でそう伝えた。
彼女は不妊治療を頑張っていたのを知っていたし、その瞬間は嘘はなく私もとても嬉しくて心からおめでとうを言えたのだ。それより前に頭をよぎった事を私は彼女に言った。
「遠慮して言えなかったんでしょう?気にしなくていいよ。言ってね。」
と。
彼女はそういうことではなく安定期に入ったばかりだし、いつもの仲間内にも誰にも伝えていないと言っていた。
そうか、彼女もきっと不安なのだな。と思ったのだ。
何月に出産予定だという事を聞き、幸せそうな夫婦の話に耳を傾けていた。
その時は本当に喜ばしかった。もちろん羨ましかった。いいなぁ~と言葉に出して言いたかった。でもきっとその言葉は彼女を更に遠慮へと傾けてしまうと私の性格上すぐさま悟った。
けれど、その場を離れしばらくするといつもの息苦しさがこみ上げて思わず旦那の腕を握って涙を拭った。
誰も悪くない。何もおかしい事はない。そして彼女の無事の出産を祈った。これは本当に嘘じゃない。
出産予定と聞いていた日程を過ぎても個人的にもグループ内でも報告がなかったので少しだけ心配していた。でも、きっと私が彼女の立場ならやはりまっすぐにそれを私に、また私のいるグループに伝えるのはかなり難しい事だと思う。
やっぱりそんな感じかな?と思っていた時に、再び偶然遭遇したのである。
彼女が私たちに気づいた瞬間、私は彼女が大事に抱えていたその新しい命にハッとして嬉しくて釘付けになった。母親の胸元で幸せそうに安心して眠っている。そして彼女自身もすでに前とは違う顔になっていた。
二十代の頃一緒にしこたまお酒を飲んで遊んでいた頃の彼女はもういなかった。
そして一緒にいた旦那さんもとても幸せそうだった。私たち夫婦も
「おめでとうございます。」
と言った。
きっとこの旦那さんも私の事をなんとなくは知っているだろう。
ありがとうございます。の言葉にどこか陰りを感じてしまった。
何だか私が申し訳ない気持ちになった。そして私は、また同じセルフを口にする。
「遠慮して言えなかったんでしょう?いいのに~。心配してたんだよ。」
と。
そして彼女もまた、それは違う色々大変だったしまだ周りにも伝えてないと。
彼女の胸で幸せそうに世界一安全な場所で眠っている赤ちゃんはとても可愛く神々しかった。
少し遠ざかっていた『親になりたい』という気持ちがどうしようもなく溢れ出てきてしまった。ザワザワした。
その場を離れしばらくすると、また胸が息苦しくなって涙が溢れた。
祝福する気持ちと羨ましい気持ちがぐちゃぐちゃになる。
誰も悪くない。何もされてない。
でも、こういう事が起きるたびに私の中には『どうして私は』という疑問という闇が覆い尽くすのだ。
この気持ちが世にいう妬み、という事ならばその気持ちから卒業できない自分の人生が悲しくも感じてしまった。
仕方ない、とその妬みを肯定していったとしても一体どうやって世の中の親になれた人たちと接していけばいいのだろう。
気を使われることに気を使い、気を使われないことにも違和感を感じ、私は一体どうすれば元のようにまっすぐに生きていけるのかがわからなくなてしまったのだろうか。
ちなみに以前、ネットにご丁寧に
「安定期に入りました」
とSNS上に上げていた子と違い、彼女はとても周りの気持ちを大事にする頭の良い友人だ。
だからこそ気まずい思いをさせているのではないかと私は感じてしまうのだ。
物凄いわがままかもしれないけど暗闇くんの居所によって『気を遣って欲しくない時』と『気を遣って欲しい時』が交互にやってくるのも実は事実である。
きっと周りの子持ちの友人達にとって、私は今とても付き合いにくい人物の一人になってしまっているかもしれない。
けれど、自分のことを話したことに後悔はない。私の人生だ。どうして子供がいないのか?と尋ねられる事ほどしんどいことはない。
こうやって私は自ら自分を守る盾を作り生きている。
それで普通にできない状況が生まれてしまっているのはそれこそ、仕方のないことなのだろう。
世の中には子に恵まれず親という肩書きを持てないでいる人は沢山いるはずだ。その人達も必ず何かしらのグループの一人であろう。そして周りが次々に一人の友人だった状態から、『親』という最も大きな肩書きを得ていく。
特にこの人生を年齢やステージで区分けして考えがちな日本ではそのような状況で苦しさや居心地の悪さ、そして何かしらを遠慮し気を使ってしまう空気をどうにかできないものか。
親である前に一人の人間としてもっと有意義な付き合いが保てないものか、日々考える事である。