そんなわけで私たち夫婦の元には現在、1歳になる黒のパグ犬がいる。
愛玩犬というだけあってとっても愛嬌があって、でも頑固で寂しがり屋で四六時中くっついてくる。
この子が来てから旦那は仕事から笑顔で帰宅するようになった。
可愛くて仕方ないらしく『ちびまる子ちゃん』の中に出てくるたまちゃんのお父さんばりにパシャパシャ写真をとっては空き時間にそれをスケッチに起こしているらしい。
「俺にもこんな母性的な感情があったんだなぁ。」
と感じたと言う。
ちょっとだけ皮肉を言えば、既にこの世に生まれ、日々育ってるであろう自分の子供に母性がないわけないだろう。と心の中で突っ込んでいるのは仕方ないとしていただきたい。
とにかく1歳になるまでにはもちろん大変なことも沢山あったが、その1分1秒が愛おしくて、まだこの子を家に迎えたばかりの頃、私が少しだけ夜遅くに帰宅した際に走って駆け寄ってきては、ぺろぺろと舐めてきた時には号泣したものだ。
怪しい事この上ない。
「うちに来てくれてありがとう。私の息子になってくれてありがとう。」
と心から感じて温かく幸せな感情を沢山もらっている。抱っこしながらベランダで夕焼けを見ながら号泣したりもしている。
怪しい以上の何物でもない。
やはり、子を持たない夫婦はワンちゃんや猫ちゃんを迎えてる人たちが多いことも実感した。
お散歩の際やちょっとしたキッカケで話をしたりすると『うちには子供がいないから』と言う人が沢山いる。
もちろん、人間の子供と犬や猫は違うのだろうけど家族として迎えてる人にしてみれば、なんら変わらない大切な自分の子供だったりパートナーだったりするのだ。ずっと『子供のまま』の子供なのである。それがまた、たまらないのだ。
なんなら実際の孫よりも自分ちのワンちゃんの方が何倍も可愛いと感じる、と言っている人たちもいる。なんとなくわからなくもない。大切で心配で、そして楽しく健康に毎日を生きて欲しいと願う気持ちになんら違いなはい。
どうしても先に逝ってしまう運命だけどそれも含め覚悟して家族になっているのだ。
すぐにマイナスな事ばかりが頭を先行してしまう私だからもちろん、今この膝でゆっくりと呼吸をしながら眠っている子がいなくなる事を既に想像しては怖くて仕方なくなるのだが、今はとにかくなるべく考えないように1日1日愛情を注いで育てるようにしているわけだ。
一体何が違うのだろう。自分の体を介してるか介していないかの差で、血の繋がり云々で親子は語られるべきじゃないのだからペットだって立派な我が子なんじゃないだろうか。それを別だと感じる人はきっと、自分自身に子供を授かった人だけではないとさえ思う。
命の尊さや授かることの奇跡、難しさを嫌という程体感した自分にはとにかく、今我が家に来てくれたこの『ワン子』が大切で愛しくてたまらない一番の宝物なのだ。
この出会いに感謝しかない。
その一方で、考えても仕方ないとわかっていながらもう既に失う事の恐怖感に覆われて怖くなることがある。
朝方ふと目が覚めて、隣でゆっくり寝息をたてながら夢を見ているだろうこの子が『生きている事』にホッとしてもう一度床に就くということもよくある。
とにかくやはり私の『喪失感恐怖症』は異常なまでにこびりついているようだ。
本当は『いま、ここ』に集中して感謝して生きていかなければならないと、嫌と言うほど手にとった文献や名言的なものを目にしてその通りだと、言い聞かせているのに。
与えてもらったかけがえのない命を、原因も理由も知らされる事なく否応なく引き離される経験を『立て続けに』しすぎて愛しさの裏にはペラッペラの薄さの近すぎるところに恐怖心がいつも存在感たっぷりに立ち尽くしている。
暗闇くんとはまた違う、哀愁じみた悲観くんと言ったところだろうか。
今はこいつの方が私の中では厄介な存在になっている。
愛しさを感じれば感じるほど、こいつはじりじりと私の記憶という脳裏に入り込んでフッと哀愁を振りまいては微笑むのだ。