愛しい息子犬との日々が続いていて、毎朝起きた時に尻尾を振りながらよりそってくる時。
そして「おやすみ」と言った後に隣で小さな寝息を聞いてるだけで私にとってはとてつもない安定剤になっている。
もちろん実際の安定剤も相変わらず飲んでるわけだけど(苦笑)
変な言い方をすれば
「今日も生きていてくれている。側にいてくれている」事に安心していている自分がいると共に、感謝の気持ちで埋め尽くされる。
我が子はわんこだけど、こう言う無償の「愛情」と言うものを初めて教えてくれているのだ。
なかなか自分の子供が授からない私は親になる喜びを味わえない一方、親になる苦労も味わえていない。勉強できないのだ。
こういう事になる前、よく
「子供のいない人にはわからない事が沢山ある」
と年配の人の話で耳にする事が多くあった。
学びたくても、学べなね~んだよ。
と今は言ってやりたいのだけど。
それを言うなら『子供を授からない、子供を元々持たないと決めている』人にしか感じない、学べない事だって沢山ある。
相変わらず、と言うか年齢の問題だろうがここ最近また
「妊娠しました」報告が後を絶たない。
苦労して授かってる人の話を聞くとよかったなぁ~イイなぁ~と思うのだが、特に何もなくヒョイっと授かってる人のヒョイっとした妊娠報告を聞くと、やはりどうしても複雑な気持ちになってしまう。
出産報告はまだ理解できるのだが、妊娠報告っているか?とも思っている。
一方、おめでたい事をきちんと普通におめでたいと思えなくなってしまった自分にも嫌悪感を抱いてまた落ち込む。
暗闇くんが同意してくる。ハイタッチしてくる。
スターウォーズ的に言う暗黒面がじわじわ脳裏に広がる感覚はものすごく心地が悪いし、このルーティンは終わる事がない。
きっとずっと続くたまに否応なく訪れる自分を試される憂鬱な試験のようなものだ。
学生時代の憂鬱で灰色感満載な試験期間中がずっと続いてる感覚。
でもきっと毎回涙を流して、微妙な気持ちになって。それを繰り返して生きていくのだと受け止めていくしかないのだろう。
私はきっとしばらく今まで何の変哲もない話をして盛り上がれてた女友達とはしばらく、本当の意味では語り合えない。
無理して会うこともない。
だって、『気を使われないのも、気を使われる』のも何だか辛いのだ。
そんな扱いにくい人間、私が逆の立場でも面倒臭い。
女は特に、集まれば子供のいる人たちは『子供の話』中心になる。仕方のないことだ。
暴れる子供を傍に置いて、
「あの彼はホットよね~」
とか話してる外国ドラマとかみてるとイイなぁと思う。
あくまでも主役は
『自分』
子供がいようがいまいが、話は
『自分の話』
で子供はその中の一部である、と言う印象が強い。
そう言う感覚がありながらも子供を絶対に一人で家に置いてはいけないとか倫理的な事は日本よりも徹底しているような気がする。
日本はいまだにベビーカーの集団が道も譲らずに何かの医療ドラマの総回診のように闊歩しながら、学生が一生懸命勉強しているようなカフェで大声で子供の進路の事をくっちゃべっている。(勿論、ちゃんとした方もいますよw)
子供ができると、「自分」を無くした上に周りへの心遣いも一旦失ってしまうのだろうか、と感じてしまうこの頃。(もう一度いいますが、ちゃんとした方もいますよw)
あれかな。
そうやって『強くならないと母親になんてなれない』っていうよく聞くやつかな。
旦那さんまでも粗末に扱うって言うじゃない。
いや、これもきっとただの妬み嫉みだな。
と私の気持ちはシーソーのように行ったり来たり。
だけど、もう少し一人の人間として、一人の女性として大事なものは無くさないで欲しいなとは心から思うのだ。
周りへの気遣いや思いやり、旦那様への配慮や社会への関心。
色々、当たり前だと思ってくれるなよ。周りに支えられている事を忘れてくれるなよ。
子を産み育ててる自分たちが一番優遇されるべき存在だと思ってるのは『大奥』の中だけにして欲しい(笑)
そんなこんなグジャグジャとした女の『お世継ぎ問題や子持ち子なし戦争』も描かれていた『大奥』(フジテレビ版)。
あれが大分好きだった私は、やっぱり女なんだわと感じた事もあるけど、偉大な人物ほどそのグジャグジャからは一歩引いて物事を考え動くものだ。(勿論フィクションの中ですがそういう人が『偉大』という描き方をするのだ)
『自分が一番偉い』という薄っぺらいものとは違う『自分』を一番に生きていけたらもっとこの国もキラキラとした何かが生まれて今の混沌とした空気が変わる気がしてならない。
主張するべきところが大きく外れている気がする。
いちいち年齢や職業やらを初対面で質問するのは日本人独特の癖らしいから。