コロナの感染拡大で混沌とした状態が続きその話題や心までも曇りがちな空気が蔓延している現在であるが、今日で東日本大震災から9年。
忘れてはいけない日からもう、いや、まだ9年。
被災していない自分にとってはショッキングな天災として『忘れてはならない』というものになっているが、実際に被災された方々、大切な人を亡くして時間が止まっている方、いまだ収束などするはずがない福島第一原発の影響。
それに対し『9年か・・・』なんて想いを馳せるなんて偉そうな事だが、自分なりにそんな人たちが大勢いて今も必死に生きている事を考えると胸がずっしりと重たくなる。
正直一人一人の意識の問題が多く問われる今のコロナウイルス問題よりも、俄然重く耐えがたい出来事だ。
原発に関しては全く別だが、ぶつけようのない怒りや
『なぜ、自分が』『なぜ大切なあの人が』
という想いを抱えて生きることは想像を遥かに超える苦しみだ。
否応なく大切なもの、人をさらわれてしまう経験は心をえぐられたまま戻るものではない。
流産という違う形ではあるがそれを経験した私はその後さらに、この被災した人達の心を想像すると途端に涙が止まらなくなる。ざわざわして仕方なくなる。
この震災で一つの話を耳にしたことがあった。
不妊治療をしてようやく子供を授かりやっとの思いで産み落とすことができた時にこの地震が起き、津波が襲ってきたという。
迫ってくる津波にのまれ、その我が子の手をしっかりと握っていた。
絶対に離すまいと握っていたのだろう。
しかし非情にも波がその子だけを拐い失ってしまったという話だ。
こうして今、文字に起こしていても苦しくて涙が止まらない。
なんて残酷な話だろう。
その後もこの人はきっとずっと苦しみ続けてるに違いない。
離した手のこと、自分だけが生きていること、そして『どうして私が』、という思い。
いつも何度でも言うが神が、人々が崇めている絶対的な神的なものが存在するなら本当に嫌なやつだ。
これをもって学べなどと言うのは酷すぎるし意味がわからない。
そんな人がいる中で当たり前に授かり、自分の子供を公衆トイレに流したというおよそ人間ではないだろうヤツのニュースもある。
日々虐待をしてきたくせに全く自分には非がないと法廷で泣いた悪魔のような男もいる。胸糞が悪いっていうのはこういう事なのだろう。
なんなんだろう。この仕組みは。
被災した方、想像も絶する苦しみを味わった人にはきちんとそれこそ想像以上の幸せが訪れないと全くもって納得ができない。
でも、実際は悲しいことにそういった事を『感じる人』と『感じない人』の差なのか。
鈍感で何も考えない、自分のことしか考えられない、人間離れした悪魔の方がのうのうと生きていけるのかもしれないと思わざるを得ないことばかりが世の中には蔓延しているように思う。
だけどその鈍感さ、図々しさを羨ましいと思うことも正直あるが『そうなりたい』とは一切思わない。そもそもそいつらは病気の域を超えたものを抱えてる存在なのだ。
その人たちがみている世界はきっと灰色だ。
心が動かないならただの機械だ。
きっと話すことも話す相手も何の意味も持たないつまらないことばかりなのだろう。
世に言われる、神様。
どうやって振り分けるのですか。
人間の幸や苦は振り分けられるのでしょうか。
それともこの地に生まれ落ちたことが苦行なら辛い想いをすればするほどにポイントが溜まってちゃんと還元されるのですか?
どうかどうか、この東日本大震災に限らず被災された人達の心と日々に沢山の彩りと幸せが『ものすごく偏って』降り注ぎますように。