私は親になれない

流産を3回経験し、絶賛『鬱病』闘病中・子なし四十路女の小言。それでも切実に伝えたい事。この日本でも個人での自由な生き方がもっともっと当たり前になりますように.....。

58、やめられない

現在、抗うつ剤と安定剤とそれに変われそうな漢方薬を飲み不育外来で勧められたビタミンDのサプリに加え葉酸サプリも飲んでいる。

時に、「ハッキリともう一度」と覚悟しきれてないのになんでこのサプリを私は毎日飲み続けているのだろうと、ふと我に帰ることがあるが、なんとなく続けている状態になってしまっている。

葉酸なんて、はっきりいって毎日空振りしながら飲んでる気分だ。

 

そして抗うつ剤の減薬を勧めているのだが、ようやく初めての段階にまで減薬をすることができるようになっている。

心療内科も2週に1度が3週に1度になり、先日ようやく、次は1ヶ月後にしましょうというなんともはやこの類の患者としては嬉しい太鼓判をいただいたのだ。

 

暗闇くんがいなくなることはないが、共存の仕方をこの3年で少しずつ手探りで学んできている気がする。

 

こういう薬を飲まなくてはいけなくなった事も私にとっては肥しとなり、いつか『良い経験』の一つへとなるだろうか。

そういうところまで辿り着けるだろうか。

それはまだわからない。

 

とにかくここに胃腸の具合が悪い時には二つほど病院からもらっている常備薬があるのでこれが加わる時にはもう、何を何錠、朝昼晩、いつ飲むか飲んだか訳わからなくなる時も実は多々ある。

 

だからはたと、忘れてた!って事は『実はいらね~んじゃね?』

とか思う事もある。これに関しては前述した通り精神的な薬にはすぐには通用しないのだが。

 

依存、というものを考える。

以前二十代前半の頃はタバコも吸っていた。お酒も結構飲んでいた。タバコの依存は完全に脳内をやられてる事に禁煙を試みた時に気づく。

私にとって初めての依存症の怖さを体感したのはこれだったかもしれない。

 

人に依存する事もある。

自分に、自分の心に依存してしまう事もある。

 

私の『親になりたい』気持ちもそれがままならないことから来ている執着心というか依存なのではないかと、冷めた思考が作動してる時には思ってしまう時もある。

 

それがパワーとなる時はいいが、それが人を苦しめる時もある。

何かを信じ、何かに依存するのは人の生業だがその数は実は多い方がいいのだろうか。少なければ少ないほど危険な方向に、また自分の首を締めうるものとなるのかもしれない。

そのバランスがとれるのは心身ともに健康な時だけだ。

 

だけど依存=愛。ではない。

 

依存=自己愛。に近いと思う。

 

自分が大切だから何かにすがり自分を保とうと、そしてそれが正しいと思い込ませるうち依存へと向かうのかもしれない。

 

完全に独立して生きていくことなど不可能だ。はたまた独立していたとしてもその独立心が自己愛を強くする事もある。

人間が依存することが必須な生物ならば正解はどこにあるのだろう。

 

依存をパワーに変えられる客観性を持てる思考力を保つために、これもやはり色々な世界に触れ色々な人に出会う必要があるのだろうか。

 

私はどうなりたい?これからどうしたい?ゆっくり呼吸して無駄な依存が蔓延っていないか目を閉じて考えてみよう。