連日、このような状況下においても『買い溜めお化け』や『パリピの妖怪』がそれはもう俳諧している。
ただ普通に日用品を購入したいだけなのに一気にそこに正気を吸い取られて一瞬外へ出ただけで重度の疲労感を感じる。
今週末は自宅待機要請が出ているというのに我が家の向いは昨晩、子持ちの家族が集まって大騒ぎしていた。
感染の恐れありの三つの要素をここでもう網羅しており、家の中にいるからいいと思ってるアホなのか全く意味のない迷惑な行為だ。
私の好きな映画の中に河瀬直美監督の『あん』と言う作品がある。
樹木希林さん演じる「ハンセン病」のおばあちゃんがある時、町のどら焼き屋に「働かせて欲しい」と懇願し素晴らしく美味しい「あんこ」を作り上げ披露する。
そのおかげでお店も繁盛ししばらく温かい日々が続くのだが、ある時から世間に
『あの店にはハンセン病の患者がいる』
と噂が広まり誰も寄り付かなくなったことに責任を感じて、静かにまたほぼ隔離状態にある施設へ戻って行くとてつもなく切ない物語だった。
河瀬監督の独特な自然の捉え方、撮り方、そしてなんといっても樹木希林さんの切なくも力強い演技。心にささる台詞。
『あんを炊いている時の私はいつも小豆の言葉に耳を澄ませているの。
それは小豆が見てきた雨の日や風の日を想像することです。
どんな風に吹かれて小豆がここにやってきたのか旅の話を聞いてあげること。
そう、聞くんです。
私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。
だとすれば。
何かになれなくても
私たちには生きる意味があるのよ。』
当時、どうして『自分は親になれないのだろう』とそればかりが頭に巡っていた自分にとって、このセリフには心をかき乱されそれでいて心が浄化された気持ちになった。
素晴らしい作品だった。
ハンセン病はいまだに『ライ病』と言われ、治る病気にもかかわらずその菌を恐れられ差別され続けている。
昔はこういった施設に預けられ隔離される事が当たり前だったようだ。悲しいいわれの無い差別以外の何ものでも無い。
『菌』や『ウィルス』を恐れこうやって隔離し差別し追いやる事も平気でするのに、どうして現在のコロナに関してはこんなに意識が低いのだろう。危機感がないのだろう。特に今現在の日本人。
中にはアジア人だと言うだけで差別を受けてると言う報道もあったがこれは悲しくも必ずや起こる事象。
見えないウィルスに対して恐怖心を抱かないのが不思議で仕方ない。
こんなに蔓延してるとわかっていてそれに対しては自分を、周りを守ろうとしないのはなぜだろう。
多くの若い人は
「自分は大丈夫」
とたかをくくり
守られるべき高齢者の中にも
「自分はもう、どうせ老い先長く無いから」
と小さな自暴自棄的な感性で全く警戒せず生活してる人も沢山いると耳にした。
人間は不思議だ。ここでどうしてそうなるのか。
そして決してなくならない『差別』はどんな種のものであっても、こういった『自己中心的な人たち』がするものなのだろうとも思う。
日本人が未曾有の震災を経て学んだものはどこへ行ってしまったのか。
「忘れる」というのはこと、自分に降りかかったものでないとその速度はとてつもなく早いようだ。
このままだと『ココロ』を大事に成長してきた日本は確実に誰の声も何の声にも耳を澄ます事ができない国になってしまうだろう。